加藤忍九郎 かとう-にんくろう
[加藤忍九郎像説明版]
翁は天保九年野谷村に生まれ名主役を勤めた維新後実業に志し先ず石筆を製造して教育に貢献し又大平鉱山を輿て蝋石を採掘し続いて耐火煉瓦の製造に神機軸を発揮した 更に山陽鉄道の開通に精魂を盡くし社会事業にも協力されるなど茲にその遺徳を称えて顕彰する
行年八十一才
昭和四十三年十月𠮷日
加藤忍九郎翁顕彰会
1838-1918 明治時代の実業家。
天保(てんぽう)9年生まれ。明治5年岡山県野谷村(備前市)のろう石を原料に石筆の製造をはじめ,小学校での普及により事業を発展させる。また23年三石煉瓦(れんが)製造所を設立し,日清(にっしん)戦争下で急成長をとげた。大正7年7月5日死去。81歳。備前(岡山県)出身。
忍九郎氏は、三石の蝋石を使った事業の展開を推し進め、また蝋石を運ぶための山陽鉄道敷設に尽力したことから、地元の名士として現在も顕彰されています。
加藤忍九郎が耐火煉瓦を試作する際、地元の伝統産業、備前焼を焼く技術が役に立ちました。
最初の耐火煉瓦は、備前焼の登り窯で焼いたという記録があります。
耐火煉瓦の原料・蝋石の産地であったこと、煉瓦を焼くための窯があったこと、その二つが重なりあったことが、この地区が国内最大の耐火煉瓦の生産地となりえた大きな要因となっています。
やがて明治政府は富国強兵を推進してくと同時に、国内の産業育成政策を政府主導で推し進め、日本各地に製鉄所を建て、鉄を溶かす反射炉を築造します。
参考文献「社名:土橋鉱山株式会社
本社所在地:〒705‐0132 岡山県備前市三石2602番地
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