2026年8月28日金曜日

家伝の妙薬「延寿返魂丹(はんごんたん)」を以て医業を職とする「萬代常閑」

 

万代家の子孫や代々の常閑に関連する人々は備前市(特に旧片上町域)にも深くゆかりがあり、明治以降は備前市片上で万代医院(万代家)が診療所を開業・居住していました。 

一方で、富山売薬の基礎を作った江戸時代の中心人物(11代・第3代などの呼び方がある常閑)自身は、主に備前国和気郡益原村(現在の和気町益原)に住んで医業を営んでいました。そのため、備前市内の寺院(西片上の真光寺など)には、富山売薬の祖を顕彰する「万代常閑翁像」が建立されています。万代常閑の名は岡山よりも富山で有名で、富山では「越中売薬の祖」として知られる。富山市梅沢町の日蓮宗日向山妙国寺では万代家から分骨された常閑の遺骨をまつり、毎年売薬商人が帰郷する6月5日に報恩祭を営んでいるという。万代家では代々「常閑」を襲名しているが、ここにいう常閑は万代家11代の常閑である。

 万代家の「先祖書」(『和気郡史 資料編上巻』所収「万代家文書」)などによると、万代家は3代主計(かずえ)の時、応永年間(1394~1427)に備前国和気郡益原村(現和気町益原(ますばら))に移り住み、常閑と改名、家名も「もず」から「まんだい」に改め、家伝の妙薬「延寿返魂丹(はんごんたん)」を以て医業を職とするようになったという。「返魂丹」は初代掃部助(かもんのすけ)が唐人から秘法を伝授されたものと伝えられている。

 返魂丹と富山との関わりは次のように語られている。常閑が長崎へ旅した時のこと、懇意になった富山藩士日比野小兵衛が腹痛で難儀した際、常閑が与えた返魂丹で腹痛がおさまった。小兵衛は常閑からその製法を学び自ら用いていたが、藩主前田正甫(まさとし)が腹痛で苦しんだ時、これが効いたことから、正甫はこれを藩内の薬種屋松井屋源右衛門に命じて製造、販売させることにした。その効き目は顕著で評判となり、正甫は松井屋源右衛門に命じて広く諸国へ売り広めるよう命じ、源右衛門の手代源兵衛が諸国へ販売することになった。これが越中売薬の始まりであるという。

 岡山では、すでに江戸初期のころ、8代常閑は岡山藩主池田忠雄に招かれ、城で返魂丹を調合、その後も度々城に召されたという。元禄17年(1704)には11代常閑が藩主綱政から森下町に屋敷と「延寿返魂丹」の大看板を下賜され、のちには10人扶持を与えられて郡医者を仰せ付けられている。

 返魂丹は岡山領内では「大庄屋廻し」とよばれる独特の方法で販売された。それは、返魂丹一粒を銭40文とし、大庄屋組ごとに100粒ずつを預け、年々その代金を徴収するという、藩の支配機構を利用した置き薬方式であったが、郡代高木右門の時(19世紀初頭)大庄屋廻しが廃止されると、以後販売は思うにまかせなかったと考えられる。これに対し、富山藩では明和2年(1765)「反魂丹役所」が設置され、販路を拡大していった。江戸末期、例えば津山藩領内で富山の売薬が8株の薬種屋に許可されて販売されている。

 当館で閲覧できる関係図書には、『反魂丹売薬の起源と萬代常閑』や『富山売薬業史史料集』などがある。

(『岡山県総合文化センターニュース』No.418号、H11年、11月)

2024年6月19日水曜日

片上の偉人 松本史章 (岡山県備前市片上)


 

松本史章翁は明治三十三年十一月七日片上町に生まれる 人格温厚にして誠実 性格先見性に富み決断力に優れる昭和十一年 耐火煉瓦製造を始める昭和十五年片上耐火煉瓦株式会社に組織変更し同社の発展を通じて地域経済の振興に貢献する戦後混乱期の昭和二十二年四月片上町長 岡山県議会議員に就任し片上町の基盤づくりに尽力する愛する片上の発展と人材育成のため多額の私財をもって片上高校を創設する現在の岡山県立備前緑陽高等学校の前進でありその功績は多大である

時流を洞察し光んじて事を起こす明敏の士に非らざれば至難財を一代になしえかこれを公共に散ずる篤行刀士のみよくするところ、民は終戦前後世相混迷のさ中において、私財を投じ、県立備前高等学校の基盤を創設されたる明敏篤行の士

昭和四十七年七月んニ十八日 七十二歳をもって逝去される

2024年6月14日金曜日

三石の偉人:牧眞一(岡山県備前市三石)

 牧 真一(1952 年ヘルシンキオリンピック フェンシング)

[レリーフ説明板]

郷土三石の産んだスポーツの大先輩牧眞一先生は慶應義塾大学卒業全日本フェーシング選手権保持者でオリンピックヘルシンキ大会に出場しその後日本フェーシング協会会長として世界と対等のレベルに技術向上なされた先駆者であり実業界では三石高級耐火工業株式会社社長の激務の傍地域体育の振興に尽瘁され三石皆スポーツを推進しスポーツと音楽の町を建設された恩人です 

謹んでご遺徳を偲び顕彰すると共に後生の亀艦と讃えます

昭和52年6月10日永眠 従五位勲四等旭日小授章拝受 行年60才

昭和54年5月6日除幕

牧眞一先生顕彰会





三石の偉人:加藤忍九郎(岡山県備前市三石)

 加藤忍九郎 かとう-にんくろう

[加藤忍九郎像説明版]

翁は天保九年野谷村に生まれ名主役を勤めた維新後実業に志し先ず石筆を製造して教育に貢献し又大平鉱山を輿て蝋石を採掘し続いて耐火煉瓦の製造に神機軸を発揮した 更に山陽鉄道の開通に精魂を盡くし社会事業にも協力されるなど茲にその遺徳を称えて顕彰する 

行年八十一才

昭和四十三年十月𠮷日

加藤忍九郎翁顕彰会


1838-1918 明治時代の実業家。

天保(てんぽう)9年生まれ。明治5年岡山県野谷村(備前市)のろう石を原料に石筆の製造をはじめ,小学校での普及により事業を発展させる。また23年三石煉瓦(れんが)製造所を設立し,日清(にっしん)戦争下で急成長をとげた。大正7年7月5日死去。81歳。備前(岡山県)出身。

忍九郎氏は、三石の蝋石を使った事業の展開を推し進め、また蝋石を運ぶための山陽鉄道敷設に尽力したことから、地元の名士として現在も顕彰されています。

加藤忍九郎が耐火煉瓦を試作する際、地元の伝統産業、備前焼を焼く技術が役に立ちました。

最初の耐火煉瓦は、備前焼の登り窯で焼いたという記録があります。

耐火煉瓦の原料・蝋石の産地であったこと、煉瓦を焼くための窯があったこと、その二つが重なりあったことが、この地区が国内最大の耐火煉瓦の生産地となりえた大きな要因となっています。

やがて明治政府は富国強兵を推進してくと同時に、国内の産業育成政策を政府主導で推し進め、日本各地に製鉄所を建て、鉄を溶かす反射炉を築造します。

参考文献「社名:土橋鉱山株式会社

本社所在地:〒705‐0132 岡山県備前市三石2602番地

https://www.tsuchihashi-kozan.co.jp/

2020年5月22日金曜日

繰り返し洗って使える 手作りマスク

ひだすき作業所(岡山県備前市浦伊部58-11・TEL,0869-63-0751)は、

繰り返し洗って使える手作りマスクを、製造販売しています。

宜しくお願い致します。


2020年4月20日月曜日

御衣黄桜(ぎょいこうざくら)

御衣黄桜(ぎょいこうざくら)
2020(R2)年4月20日
浄光山妙圀寺=岡山県備前市浦伊部22
希少な珍しい桜「御衣黄桜」は、満開でした。
画像の上で👇クリックすれば拡大します。







御衣黄」とは白色から淡い緑色をした花を咲かせる八重桜の一種です。
江戸時代初期に誕生しかつては秋田県東由利町の町花にもなっていました。
「御衣黄」という名前は昔貴族が気品のある色として好んだ萌黄色の衣服を思わせることから江戸時代中期に名づけられたと、言われています。